僕は女性として生まれた系男子~変えられないものとどう向き合うか~

僕は今男性として生活しているけど元々は女性として生まれました。

いわゆる性同一性障害というやつです。

男性ホルモンは打っているんだけど戸籍上は今も女性です。

 

ちなみに『女性として生まれて性自認が男性』である人のことをFTM(Famale To Male)と言ったりもします。

(こういった用語はたくさんあって馴染みのない人にとってはややこしいと思うけど以後FTMと表記)

 

先日YouTubeの動画でもちらっと話したんだけど、実は今回ネットのようなオープンな場で初めて公表しました。だから長く付き合ってる人でもこの記事で初めて知る人もいると思う。隠してた訳じゃないんだけど、直接言えなくてごめんなさい。

 

「はじめまして。男性の〇〇です」

「はじめまして。女性の〇〇です」

とかってみんな自己紹介の時に言わないと思うけど、そういう感じで普通に男性として生活するようになるとわざわざ言うタイミングがなかなか見つからなかったりする。

ちょっと聞いて!って言うことでもないし…

 

聞かれたら全然話してもいいんだけど…っていう感じで今日に至りました。

 

それがここ最近いろんな状況や出来事や人との出会い・タイミングが重なって自然と書いてみようという気持ちになれたので今回は自分がFTMであることとどうやって向き合ってきたかを書こうと思います。

 

 


 

今までは性別のことは別に僕のアイデンティティではないと考えていた。

FTMのけんじとしてではなく、けんじという人間として見てもらいたかったし、話そうが話さまいが僕がFTMであることに変わりはないから別に話してもいいんだけど、逆に言えば殊更強調する必要もないだろう、と。

 

だけど『自分を活かしていく』『自分にしかできないことは何か』っていうのを考えると、やっぱりこの話題は避けて通れないと思った。

 

 

 

今はそのことについてほとんど悩んだりはしてないんだけど、やっぱり自分でそのことに気づいた中学生の頃には相当悩みもした。

 

自分は普通じゃないんだと思った。

『普通』とか『常識』とかから外れること(外れてしまったと思うこと)で苦しむっていうのは今思えば僕のこういった問題だけじゃなくてよくあることだと思う。

 

なんというか幸せのテンプレートみたいなものがあって、どこかでそれを目指さないといけないんだというか。

今はどうかわからないけど僕の時代はまだそういうものが今よりまだ強くあって、僕の個人的な思い込みもあったと思うけど、学校を卒業したら定職についてそれなりの給料をもらって、恋愛をして結婚をして子供を育てて休みの日には家族で公園やショッピングモールに行く、みたいな。(たぶん最後の方は完全に僕の勝手なイメージだけど…笑) 

 

自分がFTMであることに気づいた時にそういうもの(="普通"の幸せ)はもう僕には望めないんだと思った。その時はもうそう思い込んでいた。

あぁ僕は普通の恋愛もできないし普通のSEXもできないし自分の家族ももてないんだなぁ…とか思って悲観的になっていた。

 

とは言いつつもそのあと比較的早い段階である女性と恋愛関係になり、その後も欠乏感を埋めるように恋愛を繰り返していくことになるのだけれど。

※ちなみに良い機会なので補足しておくとFTMイコール女性が恋愛対象という訳ではない。 FTMというのは性自認(自分の性をどう自認しているか)の話であって性的指向(恋愛・性愛の対象)はまた別の話です。

 

元々僕は負けず嫌いでなぜか根拠のない自信を持っていて人にできることは自分にもできるんじゃないかなんて傲慢なことを思っていたりするタイプではあった。

それでも性別のことに関してはどうしたって自信なんか持てなかった。だっていくら男性らしく振る舞ったところで男性にはなれないんだから。

 

そういう所からくる自己肯定感の低さを最初の頃僕は他者からの承認によって埋めようとしていたように思う。特に恋愛においての女性からの承認を。相手が自分のことを『男性として』好きでいてくれるということで自分が男性として認められているような気がした。

男性ホルモンの注射を打ち出したのが18歳とかだからそれまでは見た目ではどちらの性別なのかはっきりとはわからない感じで、よりそういったことが自分で気になっていたのもあるし。

 

相手の気持ちを確かめるためにどこまで自分を受け入れてくれているのか試すようなことをしていたと思う。自分の思い通りにならないことがあったらすぐに「自分は大事にされていない」「思われていない」と感じた。不当に扱われたということは怒って当然だと言わんばかりに感情的に怒鳴ったりもしていた。(最近出会った人にも比較として当時の僕を見ておいてもらいたかった…元々僕は本当に口が悪い)

それに加えて男性性というものに対する自分の歪んだ認識もあって、相手を支配・コントロールしようとしていた気がする。

 

それに相手が応えてくれることで一時的な安心感を得ることはできたものの、根本的な解決にはなっていないので自分の中の自己肯定感や確固たる何かにはならなかった。

その状態ではどこまでいっても僕は自分のこの境遇を本当の意味で受け入れることができていなかっただろうし、それに人から何かをもらおうとして結果的に大事な人を傷つけるようなやり方をしてきたことで僕はどんどん自分が嫌いになっていった。

自信をつけたかったはずなのに自己肯定感はむしろ下がっていった。

 

このままでは落ちていく一方だと思った。

だって僕が女性として生まれたという事実はどれだけ努力をしても覆ることはない。

 

この『どうやったって変えることができない』という事実。人は往々にして環境とか生まれ持った特性とか、そういう変えることができないことに苦しめられる。

 

だって『努力したらもしかしたら変えることができるかもしれない』というのであれば頑張ってみようかなと前向きな気持ちにもなれるだろうけど、変えることができないというのはどうあがいてもどうすることもできないという意味なので。

そこにフォーカスすると絶望的な気持ちになるのも無理はない。

 

他の人が普通に持っているものを自分は持っていない。

他の人が普通にできることが自分にはできない。

そんな風に考えて不公平感を感じたりもする。

なぜこうなってしまったんだろう…と考えても答えの出ないことを考え続けてしまう。

もしこういう風に生まれていなかったら…と考えてもしょうがない想像をしてしまう。

 

 

そうしてある時

僕はそんな自分がとことん嫌になった。

もう本当に嫌になった。

いつまでもそのことを盾にしている自分に

人の愛を踏みつけ人を傷つけてきた自分に

そういう劣等感からくる感情に振り回されて思ってもない言動をとってしまう自分に

ほとほと嫌気が差した。

 

このままの自分ではこの先、生きていけないんじゃないだろうか。

そんな風に感じる瞬間があったように思う。

だってその道の先には暗い未来しか想像できなかった。

ここで人生をあきらめるか、自分が変わるかの2択しかない。

人からしてみれば大袈裟に聞こえるだろうけどそれぐらいの決断を迫られている気分だった。

 

変わるしかないと思った。

 

 

 

その辺りからだと思う。

僕が『幸せ』について本気で考えたり世間の『普通』をより疑い出したのは。

 

 

その時の僕はこう考えていた

『良い人間にならなければならない』と。

自分のことをどう考えても良い人間だとは思えなかったし、良い人間になって自分を好きだと思えるようになりたかった。

 

あと性別のことにしても性別なんて関係ないと人に思われるぐらい良い人間になればいいんじゃないかと思った。ちょっとやそっとの良い人間じゃダメだ。見せかけだけ良く見せるのも意味がない。性別のことなんてそんなものは微々たる問題だと思わせるぐらいに圧倒的に良い人間になろうと思った。

(ちなみにこの時点ではまだ人からの承認を求めている発想なんだけど)

 

 

今思えば良い人間とか悪い人間とかないし、良い人間って何だ?と思う。良い人間になんてなろうとする必要あるか?とも思う。

だからこの目標は若干偏りがあるんだけど、結果的にスタートとしては悪くなかった。

良い人間になろうとする過程でまずはその自分が理想とする良い人間と今の自分がどれだけかけ離れているのかという現実を直視しなければならなかったからだ。

良い人間になろうとする必要はなかったし今でも別に良い人間ではないけれど、この現実を直視するということには意味があった。

 

自分に何が起こっているのかよく観察した。

本当は何を思っているのか、どんな感情が芽生えたのか、どういう経緯を経て自分がその言動をするに至ったのか一つ一つ観察していった。

 

この詳細については長くなってしまうのでまた改めて書こうと思うけど自分の感情から学ぶことは多かった。特に怒りの感情。

なぜその怒りが湧いてきたのかをよく観察することで『自分が何を信じているのか』を知ることができた。

 

その信じているものっていうのは世間でいう『普通』が絶対的なものではないのと同じように自分が勝手に思い込んでいるだけで事実ではない。それによって自分が望まない状態になっているのならその事実ではないという事実を明らかにすればいい。

 

そしてそんな日々の中でこんな言葉に出会った。

 

神よ、願わくばわたしに、

変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、

変えることのできる物事を変える勇気と、

その違いを常に見分ける知恵とをさすげたまえ

 

二ーバーの祈りの一節らしい。

 

 

本当にそうだと思った。そうでしかないと思った。

自分の境遇と照らし合わせることでより深く感銘を受けた。

今でもこの言葉はいつも頭の片隅にある。

 

変えることのできないものを嘆いているだけだった時、僕は自分のことを不幸だと思っていたし、嘆き続けてもそれは何にもならなかった。

変えることのできないものに向けていた目を変えることのできるものに向けて、一つずつ変えていった。

 

自分のこの境遇を嘆いたり人からの承認を求めたり人によく思われようと人に合わせたりするのではなく、自分が感じていることを観察して本当の気持ちを知り、結果に関わらず毎瞬毎瞬ありたい自分であるという選択をすることに集中した。

日々自分のなかでいろんなものが渦巻いている。

人がどうだとか気にしている暇はなかった。

 

僕の生まれた境遇を変えることはできない。

人からの承認によって自分を満たすこともできない。

人や結果をコントロールすることはできない。

だけどありたい自分であることはできる。

どんな悲惨な状況であってもいつも僕は自分で自分の選択することができる。

 

その実感が少しずつ自信になっていった。 

 

文章にすればスムーズにいったように聞こえるだろうけどそんなにすんなりといった訳じゃない。

行っては戻っての繰り返しで本当にちゃんと進めているのか確証はなかった。

なんでこんな大変なことをしなければならないんだ。もう何も気づかないフリをして文句を言いながらそれなりに生きていけばいいんじゃないのか、と何度も諦めそうになった。

 

「なるほどそういうことだったのか」とある程度自分の中で整理がつくまで10年ぐらいかかったかもしれない。

今思えばほぼ独学と試行錯誤でやってきたのでこんなに時間がかかっただけで、カウンセリングとかそういう人の力を借りればもっと早く進んだのかも。

でも自分の場合は試行錯誤したことによって人間の感情の仕組みについて理解が深まった部分はあるので良かったと思う。

 

 

 

僕が女性に生まれたという事実は何も変わっていないにも関わらず僕にとってのこの世界の意味合いは大きく変わった。

 

あれだけ男性に生まれたかったと切望していたにも関わらず今では性別のことにそんなに執着がない。

女性だろうが男性だろうがそこはそんなに重要じゃないと思うようになった。

今一応基本的には男性として生活しているけど『自分は男性だ!』と意識する場面というのはなかなか無い。考えてみるとよくわからない。

あれだけ人生を左右するほど重要だと思っていたことなのに、それを解決したくて進んでいった結果それがあまり重要ではなかったことに気づいたのだから皮肉と言えば皮肉だ。

 

もちろん自分にとって重要だと思うことを追い求めるのは悪いことじゃない。

だけど追い求めた結果、僕と同じように本当に求めていたものは『それ』じゃなかったと気づくいうこともよくある話だと思う。

そのことに気づけるだけでも1歩を踏み出す意味はある。

 

 

 20年前、僕は自分の取り扱い方がわからず

『このままでは僕はいつか気が狂うか刑務所に入ることになるかもしれない。生きていくことができない』などと思っていたのだ。

 

そんな僕でもこうして捉え方を変え、生きやすくなった。

自分よりももっと大変な環境にいる人はたくさんいるし、そういう人たちがどれだけ辛い思いをしているのか僕には本当の意味で理解することはできないと思う。

だけどそれでもそういった課題の壮絶さに関わらず、捉え方を変えてそこから自由になることは可能なんじゃないかと思わずにはいられない。

 

 

問題の解決には目に見える方法と目に見えない方法があって。

例えば僕のようなFTMの例で言えば、性同一性障害という診断を病院で受けて、ホルモン療法や手術をしたり名前や性別を変更したりすることが目に見える方法かもしれない。

セクシャリティについて悩んでいる人なら同じような人と出会って情報を共有したり、自分が自分らしくいられるコミュニティで過ごすこともそうかもしれない。

その他のすべての問題においても『どんな言動をするか』『どう対処するか』という目に見える問題解決方法について考えることが多いと思う。

 

だけど『自分が自分のことを受け入れているかどうか』といった目に見えない部分については案外後回しにされていたりする。(昔に比べるとかなり重要視はされてきているとは思うけど)

目に見える変化・具体的な行動を起こしていくことももちろん大切だし並行してやっていくことだけど、いつかは自分と向き合って自分で自分を受け入れないと頭打ちになる可能性がある。

 

昔、僕が自分を受け入れていなかった時のことを思うとどこか自分の人生を生きていなかったように感じる。

普通でないことによる不安はそもそも世間の基準からくるものだし、人によく思われたいとかどう思われるかとかを気にするのも人を基準にしている。

自分が男性でないということについても、元から男性として生まれている人がいることや『一般的な恋愛の形』『一般的な社会での扱われ方』なんかを思えばこそより不満や不公平感を感じたりするのであって。

 

いつもいつも人を基準にして、人と比べて、自分の本心を見ないようにして、人に認められる何かになろうとしていた時、僕は誰の人生を生きていたのだろう。

 

だって自分がどれだけ嫌だと言ってもやめたいといっても、これが僕なのだから。

 

「これが自分だ」「これが自分の人生だ」と言えた時、心から受け入れることができた時、初めて本当の意味で自分の人生を自分の手に取り戻すことができるような気がする。

そこからまた望む方向へ足を進めていけばいい。

 

 

誰もがそうやって自分らしく自由に生きられるようになるといいなと思う。

その為に僕に何ができるだろうと考えている。

 

それは別に『人の為に』とかそういうことだけではなく。

単純にみんながそういう風に人の目を気にすることなく自分自身を最大限に生きて、自分を受け入れ、自分で自分の選択をしている。

そんな世界を見てみたい。

 

『普通』になろうとして自分の心を押し殺したり苦手なことや やりたくないことを無理して我慢してやったりするのではなく。

その人の特性を活かして誰もが自然に生きることができて、やりたいことや得意なことを伸ばしていける。

そんな世界を見てみたい。

 

それはそんなに簡単なことじゃない、理想論だ、綺麗事だと人は笑うかもしれないけど。

それでもいい。

僕にはそのヴィジョンが見えているから。

 

それが僕のやりたいことなんだと

ようやく言えるようになった。

 

 

自分を受け入れたとはいえ、それを活かしていこうと思うまでには随分と時間がかかってしまったけど。

いろんな巡り合わせを経て腹をくくることができた。

 

今僕の周りでも『自分を活かしていく』『自分には何ができるのか』ということに向き合っている人が増えてきている。

これは偶然ではなく、全体的にそういう段階に差し掛かってきているのかなと思う。

 

どんな風になっていくのか、楽しみだ。

 

 

僕もこれからもっと自分を活かして、自分にできること・自分にしかできないことをやっていこうと思う。

 

あの日変わることを決めて今日の自分があるように。

 

いつか振り返った時、今日をまたターニングポイントに感じるような気がしている。

 

 

 

 

『あなたはそのままでもいい。だけど変わることもできる』ということの難しさ

前回の記事、『‪なぜ浮気はダメなのか?本当にダメなのか?』よりもさらに数年前に話は遡る。

このこともきっかけの1つとなって僕の中にありのままのその人を受け入れようという意識が生まれたのだと思う…という出来事のお話。

 

10年以上昔の話になるけど『10年ぐらい付き合ってる彼氏がいる女性』と付き合うことになった。

当時彼女はその彼氏と一緒に暮らしていた。

彼女は幼少期の親からの虐待の影響等もあり心身ともに病を抱えているような状態だったので働いておらず、僕はというとその頃 無職 だった。

出会ってから程なくして彼女は一緒に暮らしている男性と別れて僕と付き合うことになったが本人に家を出るという経済力はなく、無職の僕にも当然養える余裕などなかったので元カレと一緒に暮らしながら僕と付き合うという謎の生活が始まった。

(ちなみに彼女と付き合ってすぐ僕は仕事を始めた。しばらくして彼女も仕事を見つけて家を出るという話もあったりしたのだけど…)

 

その頃の自分は考え方が変わることで少しずつ生きやすくなってきていて、こんな自分でも変われたんだからこの方法は全ての人に当てはまるんじゃないかと思い始めていた。

ちょうどそんなタイミングだった。

 

彼女は普段は明るかったけれど時々情緒が不安定になったり精神面からくる身体的な発作が起こったりして辛そうだったので、僕は自分と付き合う中で彼女がすこしでも楽になれればいいのにと思っていた。

彼女を救いたいというような傲慢な気持ちがどこかにあったと思う。

 

そして彼女はトラウマから解放されて自由になりました。めでたしめでたし。

…という風にはやっぱりいかなくて、彼女との付き合いは20代の僕にとっては初めて直面することばかりで困難の連続だった。

 

まず自分の言動の何が彼女の地雷を踏んでしまうのかがわからなくて、いつのまにか正解を探すように接するようになってしまっていた。自分では彼女の不安をケアできるようにできる限り注意を払っていたつもりだったがそれは十分ではなかったみたいだ。

それに少しはマシになってきていたとはいえ、まだまだ自分自身が自分の感情ともうまく付き合えているとは言い難く、不用意に感情をぶつけてしまうことも多かった。

 

さらにややこしかったのは彼女が元カレと暮らしていたことで、それだけでも異様な状態なのにことあるごとに元カレと比べられてしまうのが辛かった。

10年一緒にいる元カレはそりゃあ彼女のことを理解しているだろう。病気についても理解しているし、こういう時はこうすればいい、これは言ってはいけない、等色々積み重ねてきたからこその安心がある。

それに比べれば僕は何も知らないに等しい。

20代前半で屈折したプライドもまだガチガチにあった。

何かあるたびに「◯◯ならこうしてくれたのに」と言われて僕はどんどん自信をなくしていったし精神的に不安定になっていった。

一緒に寝ていてもいつ発作が起きるかわからないから少しの物音で飛び起きるようになり、心身ともに疲れが溜まってきていて一体何が正解なのかがわからなくなっていた。

 

 

そんな折、彼女が自殺未遂をしたのだった。

 

 

いろんなものが重なってしまったのだと思うけど…当時の記憶があまりなく時系列もバラバラかもしれない。詳細はもう今となってはわからない。

 

 

そしてその事実を僕は元カレからの電話で知った。

 

一緒に住んでいるから発見したのは元カレだったんだけど、僕の存在も知っていたので電話をかけてくれて、こんなことがあって今こういう状態で…みたいな話をしてくれたように記憶している。

(衝撃が大きすぎて本当に記憶に自信はない…)

その元カレは当時の僕より10歳以上年上の人だったかな。

 

結果的に彼女は無事だったんだけど…

彼女を救いたいなどと偉そうに息巻いておきながら彼女の精神の安定に何の寄与もできていなかった自分の無力さが情けなくなると同時に頭をガツンと殴られた気がした。

 

 

元カレの話は彼女から少し聞いていた。

元カレが彼女にしてきたひどい話なども聞いていて、その内容は人としてどうなんだ?と思うようなものもあったから「俺ならさすがにそんなことはしない」と思いながら聞いていた。

そんなことをする人と一緒にいるよりは僕といた方がまだマシなんじゃないか、とも。

 

だけどその時あらためて考えた。

10年付き合っていた彼女に新しい男ができて、別れて。でも仕事も住む場所もなくなってしまうから彼女のことを養って、新しい彼氏と遊びに出かける彼女を送り出す…というのはどんな気持ちなんだろう。彼女が自殺未遂をしたことを新しい彼氏に連絡するという気持ちは?

逆の立場だったら自分にそんなことができるだろうか?

 

 

愛って一体何なんだろう…と思った。

僕は何か重大な思い違いをしていたんじゃないだろうかと急に足元が崩れるような思いがした。

 

僕は彼女のことが好きだったし、誰よりも彼女の幸せを願っていた。つもりだった。

楽になってほしかった。

自由になってほしかった。

良かれと思っていた。

 

 

だけど結果的に僕が(直接的には言っていないけど無意識の内に)発していたメッセージは

『あなたはそのままではダメだ』

『あなたは変わらなければならない』

というものになってしまっていたんじゃないか。

 

変わった方が本人が楽になれるとしても、変わった方がいいというスタンスでいられると結果的にそのままではダメなんだというのとニアリーイコールだ。

 

今思えば、彼女とうまくやっていきたい(揉めたくない)とか早く楽になってほしいという思いが先行して、その時点でのありのままの彼女の状態を受け止める余裕が僕になかったように思う。

 

「あなたは変われないだろうからそのままでいい」
というのでもなく

「そのままでは良くないから変わった方がいい」
というのでもなく

「あなたはそのままでもいい。だけど変わることもできる」
ということの難しさ。

 

「そのままでもいい」と
当時の僕は言ってあげられなかった。

 

 

 

かたやその元カレは、今まで彼女に酷いことをしたことはあったのかもしれないし、彼女が変われるということを信じてはいなかったかもしれないけど、少なくともありのままの彼女のことを受け入れていたんじゃないかと思った。

 

 

10年も一緒にいたのだ。家族も同然だ。

いくつかの出来事を聞いただけの僕にその関係性はわからない。

 

 

彼女を変えようとする僕と

ありのままを受け入れ暮らしてきた元カレと

 

どちらが愛なのかは明白で

そんな事実を突きつけられた気がした。

 

 

人が人を変えられるなどと

人が人を救えるなどと

無意識の内に思い上がっていた自分が恥ずかしくなった。

 

 

 

それからしばらくして彼女とは別れることになった。

それから一度も会っていない。

 

 

だけどあの日々の出来事はずっと自分の中にある。

あれらの経験は自分にとって『何だったのか』

何の学びだったのか

あれからずっと考えてきた。

 


それからの十数年、どうすればありのままのその人を受け入れられるのか、自分と向き合い続けた。

その後付き合ったパートナーとも向き合い続けた。

まだまだ未熟だし課題は多いけど、ありのままのその人を受け入れることを阻んでいる自分の観念・感情を一つずつ消化してきたつもりだ。

 

 

だから今でも僕は人に自分の意見を言う時には慎重に自分を観察している。

人を助けようなどという気持ちが生まれていないかチェックしている。

人の選択に関与しすぎていないか。

だって助けてもらわなければならないような力のない人なんていないんだから。

 

 

基本的には人のことに関しては向こうが相談してきて初めて意見を言うようにしているし、言ったとしても絶対に押しつけない。

僕がその人を『変える』のではなく、人は変わる時には勝手に変わる。

その人の意思で選択をし、本人の力で変わるのだ。

どのみちそれでしか意味がない。

 

それに人が変わった”方がいい”とも今は思っていない。

変わらないといけないとか変わった方がいいとかいうことなんてない。

 

ただ その人のやっていることはその人の本当の目的には適っていない場合がある、というそれだけ。

 

自分にとってこうした方がいいとか方法論みたいなものがあったとしても

自分がそれを学んだことによってものすごく役立ったったのだとしても

それが全ての人に今のタイミングであてはまるとは限らない。

どうやったって人が人を変えることはできない。

それを肝に銘じている。

 

"馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない"

ということわざがあるけれどその後も本当にそれを色んな場面で実感した。

 

(ちなみに人のことが気になりすぎたり人の問題に関与しすぎる場合は、人の課題と自分の課題を混同してしまっている。それらを分けて考えることの重要性についてはアルフレッド・アドラーの思想が対話形式の物語にまとめられている『嫌われる勇気』にも詳しく書かれていてわかりやすかった。気になる人は読んでみてほしい)

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

『変わりたいと思っていない人の所にわざわざでかけていってその人を変えようとする』

それはやっぱり変なんだよね。

 

 

そうまでして”相手が変わらなければならない”と思うのだとしたら、相手の為と言いながら自分の為だったりすることも多いんだよ。

いくら変わった方が楽になれたり楽しく生きられるとしても本人に変わる気がなければ周りからその人を変えてあげることはできないんだから。

だからこういう風になりたいとか変わりたいんだけどどうしたいいだろう?と言われたら自分の意見は言うだろうし、相談された時には話を聞いたり一緒にその課題の根底にある原因を探していくようなことはできるかもしれない。

 

だけどその人が悩んでるから落ち込んでるから病んでるから迷ってるからって

それがダメだとかね、甘えてるとか、弱いとか。

今は思わない。

そういう感じがある。

悩む自由・落ち込む自由・病む自由・迷う自由、

同じ所にとどまり続ける自由、

そしてそういう気持ちを尊重したい。

 

ただそれはあくまでそんな今のあなたもOKという意味であって「あなたはそういう人間だからしょうがない」「あなたは変われない」という意味では決して無い。

 

もし変わりたいとか今の問題を解決したいという気持ちがあるならそれは可能だと断言する。

 

その後どん底から這い上がる人を何人も見てきた。

うまく説明できないけどこれは誰もが可能だという確信がある。

 

今までがどうだったかや性格も関係ないし

遅すぎるということもない。

いつでも違う道を選択できる。

 

選択できるけど、"それを今の時点で選択できない自分"を責める必要もない。

絶対に他の選択をしなければならないということもない。

人にはそれぞれのタイミングがある。

 

『自分で現状を変える力を持っているその人』の姿が僕には見えている。

だから本当のその人にただ接するようにしている。

 

今の段階で本人はその力を信じていないかもしれない。

だけど僕は信じている。

なぜならそれを知っているから。

何度うまくいかなくて同じ所をグルグルしているように見えたとしてもそれでも信じ続ける。

直接的に変えようとしなくたっていい。

別に変わらなくたっていい。

ただ力のあるその人として接していく。

 

そうするとなぜか本人にも『現状を変えることができるかもしれない自分の姿』が見え始めたりする。

(ある程度の関係性がないと難しいけど)

 

頑張れと言わないでおきましょうとかさ、否定しないで話を聞きましょうとかさ、そういうHow Toもあるかもしんないけど、結局周りができることで一番大事なのってそういうHow To以前のことなんじゃないかと今は思っている。

 

人を助けようと思うのは、どこかでその人のことを助けられなければならない力のない人だと思っているのかもしれない。

人に意見を押し付けるのは、どこかでその人には適切な選択をする力がないと下に見ているのかもしれない。

変われない人にイライラするのは、どこかでその人が本当に変われるとは信じていないのかもしれない。

 

その人に早く変わってほしくて結果的にあなたはダメだという印象を植え付けるのではなく。

その人が大切な人なら、その人が本当に困った時・本当に変わりたいと思った時に

手を差し伸べられる距離にいること。

どんな時でもその人の本当の力を信じていること。

 

 

もちろん僕も24時間365日そういう意識でいれてる訳じゃない。そりゃあ人のことが気になることもあれば腹が立つこともある。

だからこそいつでもそこに立ち返れるように自分の為に書いているようなところもある。

 

 

ちなみにそういった考えを持っていることもあるから僕がその人のテリトリーにでかけていって

「どうしたの?何か悩んでるの?」「話聞こうか?」とか「こうした方がいいよ!」「変わった方がいいよ!」と言うことは滅多にないから、ドライなのかな、あまり人と関わりたくないのかな、と感じさせてしまっていたら申し訳ないけれど。

それはそういう理由です。

 

 

そこは思い上がらないように注意しながらも、もうちょっと話しかけやすい雰囲気を出せた方がいいのかなとは思うけど。

 

だから僕が人に興味がないように見えるとしたら人の課題は人の課題とある種割り切っている所があるだけのことで、もし誰かが何か困っていて僕にできることがあるなら力になりたいという気持ちはある。

あの時は彼女と共倒れになってしまいそうだったけれど、そういう経験を経て今は随分人の感情に巻き込まれないようにもなった。

そりゃあ直接的に暴言を吐かれたり自分に影響があるような場合は「それは悲しい」とか「それはやめてほしい」と言うかもしれないけど。

でもその人が仮にネガティブな状態だったとしても第三者的に話を聞く分にはそれに引っ張られることはほとんどなくなった。

 

だから人から相談を受けても別に負担には思わないので何かあったら気軽に声をかけてほしいと思う。

 

結局当時の僕は彼女の力にはなれなかったし何もできなかった。

何なら僕といることで彼女の状態は悪化してしまったのかもしれないしこんな簡単な言葉で言えることではないけど…

彼女には本当に感謝している。

 

そういう経験の一つ一つが今の自分を作っていると思うから。

 

 

今までたくさんの人を傷つけたし、人からいろんなものを貰ってばかりだった。

本人に返すことはできないけど、その分これからの人生では人から貰ったものを少しでも誰かに渡すことができればいいなと思っている。

 

 

 

 

‪なぜ浮気はダメなのか?本当にダメなのか?

浮気がなぜダメなのか
僕はたぶん28歳ぐらいまでわかってなかった。

むしろしょうがないぐらいに思っていた。
だって別に「誰とでもやりたい!」とか「遊びたい!」とか思ってる訳じゃなくても、なんか自分の意志とは無関係の所で感情が勝手に動いて気づいたらそうなっちゃうんだもん的な(バカ)

そのくせ隠す気があんまりないからバレバレで人生で2回別々の女性に本気でビンタされたことがある。
なかなかレアな経験なんじゃないだろうか(クズ)

 

こんなことを正直に言うなんてあり得ないと思われるかもしれないけど、その過程があって今があるので恥を忍んで書いています。浮気とかで嫌な思いをしたことがある人にとっては気分が悪い話かもしれませんがよければ最後までお付き合いください。

 

なんで多くの人は浮気がダメって当たり前みたいに信じれるんだろうって不思議だった。
確かに相手は傷つくし倫理的にダメって意味は何となくわかる…頭ではよくわかってるんだけど…
どこか腑に落ちていなかった。

それでも人を傷つけたい訳じゃないし、しないで済むものならしたくないという気持ちもあった。


だからそんな自分が本当に嫌だった。
大事にしたい人を大事にできないし、人として何か欠落してるんじゃないかと思っていた。

なぜ浮気がダメなのか。
皆よく言われてるような倫理的なことを言うばかりで誰も納得できる理由を教えてはくれなかった。

自分で見つけるしかないと思った。

 


ある女性と付き合っていた時、相手は自分の感情を表現することが不得意な人だった。
自分が何を感じているのかうまく言葉にすることができなくて、ケンカをしたとしても僕が一方的に言いたいことを言うだけで相手は黙ってしまって話し合いにならなかった。

そんな彼女と何とかうまくやろうと色んな試行錯誤をした結果、とにかくまずは何を言っても大丈夫なんだという環境を作ろうと思った。

言いたいことを言えない人が時々いるけど、そんな人にも言いたいことや感情がない訳じゃない。
人のことを考えたりして感情を抑えることを続けてきた結果、自分でも自分の感情がわからなくなっただけなんじゃないかと思った。

だからそんな人は自分の感情を外に出すと『良くないことになる』と思っている。
でも本当は感情は抑圧すると余計にうまくいかない。
何でもいいから、うまく言わなくてもいいから何でも言ってほしい、僕は敵ではないと伝え続けた。
どんなに言いにくいことでも「言葉にすることができた」ということを一緒に喜んで、伝えてくれたからこそ物事が良い方向に進んだんだということを実感してもらいたかった。
僕に都合の悪いことを言われたとしても、伝えてくれたこと自体は責めていると感じさせないように努めた。

そんな中でそれまで感情を力任せにぶつけるやり方しか知らなかった自分自身も『素直でオープンなコミュニケーション』の重要性が少しずつわかってきた。


お互いにオープンであるということでどれだけ今にくつろいでいられるか。
この感じがずっとあればそれだけで結構満たされた感じがある。

結果はどうであれ、常識的な観点から見ればどうであれ、自分が何を感じてもいいということを許されている感じ。
それを表現してもいいという自由。(もちろん思いやりは必要)
相手が何かを言った時にそれを疑わずにそのまま受け取ってもいいという安心感。
そんなコミュニケーションのシンプルさ。

とにかく人がAと言った時に「この人はAと言ったけど本当はBと思っているんじゃないだろうか」っていうような
考えても永遠に答えに辿りつくことがない不安は人生に必要ないと思った。
そういうコミュニケーションはクリアじゃない。
何か濁っている感じがしてせっかく人と人が出会って関わることができたのに勿体ないことなんじゃないかと思うようになった。


それでようやく腑に落ちた。

浮気がダメなのは、付き合っている人以外に目移りすることや関係を持つということ自体ではない。
今のこの世界の常識ではどうしても嘘をつかなければならなくなるからダメなんだ、と。
少なくとも僕にとってはそういう理由なら納得できると思った。

嘘をついたらその時点でオープンなコミュニケーションが破綻する。

何でも言ってくれていい、自分はその意見とは違うかもしれないけどそれでもあなたがそう思ったということは受け入れる。
僕も正直に思ったことを言う、僕が言ったことは疑わずにそのまま受け取ってくれていい。
そうやって信頼関係を築いていって、お互いにとてもリラックスできる関係になっていった。そんな中で。

とても嘘をついてまで、その信頼を裏切ってまで、浮気をできる気にはならなくなっていた。

相手が思ったことを言葉にすることができるようになっていくのは自分のことのように嬉しかった。
すぐにできるようになった訳じゃない。本当にちょっとずつちょっとずつ彼女の中の観念がほどけていく過程をずっと見てきた。
そうやってようやく、ようやく築けた関係性を一時的な気の迷いで失いたくはなかった。


ただその時の自分がまだわかっていなかったのは
一人の人との約束的な関係をできるだけ長く続けるべきなんだと思っていたこと。

それまでの経験から、いくら浮気がダメな理由が腑に落ちたからといって自分のことをまだ完全には信じていなかった。

彼女に嘘をつかなくてもいいように、もうとにかく「誰とも出会いたくない!頼むから誰も現れないでくれ!」と天に祈るぐらいの気持ちになっていて…
出会いのありそうな場所には極力でかけないようにしていた。
その甲斐もあってかその彼女と付き合っている間は浮気をせずに済んだ。
最後まで相手を好きだと思う気持ちを持ち続けることができた。
…結果フラれた。

なんでやっ…!?人生の皮肉w

 

でも今思えばそれはそれで変だったよな。
誰かを好きになることは悪いことじゃないし、SEXをしたいと思うことも悪いことじゃない。
2人の人を同時に好きになることもあるだろうし。
だからそれを正直に伝えることができる関係性なら別に複数の人と関係を持ってもいいんじゃないかと今は思う。
お互いにそれを許容することができるのなら。

既存の価値観とは反するかもしれないけどね。
それは2人の間のことだから。
そもそも付き合うっていうこと自体、別に相手のことを所有するっていう契約じゃないんだし。
そんなことは無理だ。
まぁ僕も昔はそうだったしそういう約束をしてる関係性があってもお互いそれで納得してるんだったら別にそれはそれで学びがあるから否定はしないんだけど。

複数と関係を持ってもいいとは言ってもそこに『必要性』とか『期待』『コントロール』が関わってるんだったらちょっと話は変わってくるけど。
例えば不足感とか何かを相手からもらおうとして関係を持つとか。
何か他の目的の為にそれを利用するとか。
そういう所から来てるんだったらちょっと違和感はあるかな。
ただ心からの喜びの為に純粋に人と関われるんだったら良いよね。無理にたくさんの人と関係を持つ必要もないけど自然にそうなったなら。

それをどんどん推奨していく!って訳じゃないから基本的には普通の付き合いと変わらないとは思うんだけど、もしそういうことがあってもオープンでいましょうという関係は可能だと思うというか。

あとは別に同時進行じゃなくてもその人との間のことが完了してるんだったら「今までありがとう」と言って次に進めばいい。
長く続けることだけが大事なんじゃないし、別れはきっと悲しいことじゃないんだろうなというのは最近思う。
出会わなくて悲しいこともないより、出会ってその間に何かが生まれる方がいいし、
当たり障りない関係で当たり障りないことしか起こらないより、多少ぶつかったり大変なことはあったとしても人生においてかけがえのない時間になる方がいい。


だから次にそういう深い関係になる人とも僕はオープンなコミュニケーションをしたいし、そういう新しい課題に一緒に取り組める人であってくれると嬉しい。

 

でもこの新しい考えはまだ実践して確信を得たものじゃない。

できるなら今までの恋愛のやり方の方が一般的には『普通』だし、ある意味わかりやすいから楽だ。付き合ってそこには言葉にはしなくても約束のようなものがあって。お互いを緩やかに縛りあうような関係はドラマ性もあってそれはそれなりに楽しかった。

だけどもうそれは十分やったかな。

新しい考えの方がこの世界において自然なことのように思える。その感覚に抗えない。

『あなたが望むことが私が望むこと』
それがこの世界の基本構造に思える。

簡単ではないかもしれないけどまぁそちらの方へ進んでみようかな、と。今はそんな感じ。

 


浮気をさせない方法とかを知りたくて読んでくれた人がいたらその答えはなくて申し訳ないけど、そこはそもそも人の気持ちは縛ることができないのでなかなか難しくてですね…
特に今の段階でオープンなコミュニケーションが取れてないんだったら、相手に誠実さを強要するという方法ではなかなかうまくいかないかもしれない。
気づかせないことが優しさだという考え方もあるし、やるならバレないようにやれという人もいるぐらいだし。

だけどもし今コミュニケ―ションがうまくいっていなくても、いつか完全にオープンなコミュニケーションが取れる関係性を築けることを願う。


自分が思ったことを受け止めてもらいたいならまず思ったことを『素直に』『普通に』伝えれるようにならないといけないし、相手の思ったことも否定せずにまずは受け止めないといけない。その練習は必要。それができる人とできない人がいるんじゃなくて練習の問題だと思っている。


それは何でも相手の言う通りにするということでは決してなくて。
自分の思ったことと相手の思ったことをまずはお互い否定せずにテーブルの上に並べる。
そして話し合うということがコミュニケ―ションの基本だと思うから。

その時に『怒り』の感情にフォーカスしすぎるとテーブルの上に『怒り』『怒り』『怒り』みたいなカードを並べることになって
お互いそれで殴りあうみたなことになっちゃうので…
その怒りの前にある『悲しかった』『寂しかった』『バカにされていると感じた』『こういう風にしてほしかった』『これは嫌だった』みたいな素直なカードを出せるといいよね。

まぁ僕も昔は感情をコントロールできなくて怒鳴り散らしてたので、難しさは痛い程わかるけど…


まーあコミュニケーションは奥が深いですわ!
頭ではわかっててもどうしてもできないこともあるし。
複数の関係の話だって僕も実際そうなった時にはどんな感情が生まれてくるかまだわかんないし。
その時はその時でまた向き合って消化して進化していきたい。

 

恋愛関係だけじゃなく全ての人間関係において
人と深くつきあうとその分感情もたくさん動いて大変なことも多いけど、その分1人では辿りつけなかった所に辿りつけたりもする。


だからやっぱり面白いし素晴らしいことだよなと、
最近あらためて思ったりしています。

 

  

 

人間が馬鹿なのは"そういう風にできているから"

人間はとても馬鹿だと思う。
馬鹿なようにできている。

感情の扱い方や余計な思考によって簡単に判断を誤るし、何回も同じ過ちを繰り返す。自分すら思い通りにできないのに他人をコントロールしようとする。その上自分が正しいような顔をしている。

別に人間が嫌いだとか悲観主義的な話では全くない。
むしろ反対というか、そんな現実を直視すればする程、逆にそれがとてもよくできたシステムに思えてきた。っていう話。


今日、自分がアンドロイドになっている夢を見た。
最近アンドロイドのゲームをしたからというのもあるかもしれないけど、そういえば昔からそんなことを考えていたなぁとふと思い出した。
人間とか生命とかいうものを皆なぜか神秘的な何かだとぼんやり思っていたりするし進化論とかそういう説明だけでどうしてそれを無条件に信じられるんだろう。

 

ほとんどの人が、生きている・人間であるということを臓器が動いているとか感情があるとか自分の思考があるとか意思があるとかいうことで理解しているかもしれない。

 

でももしそれがそういうシステムだったら?
巧妙に、高度な技術でデザインされているものだったら?とよく考える。

 

『誰』にデザインされているかとかそういう宗教的な話がしたい訳じゃなく、とにかくそういうシステムが動いていると仮定したらの話。

 

 

多くの人は、
感情をうまく処理できなかったり
コミュニケーションで失敗したり
例えば自分のズルさや腹黒さや弱さなんかを
エラーだとか欠陥のようなものと思っているような節がある。

 

過去の自分もそうだった。

 

見方によってはそう見ることもできるかもしれない。本来人間というのはもっとより良い状態があるんだ、と。

 

でもよくよく考えたら今まで出会った人でエラーのない人なんかいなかった。
程度の差こそあれ最初からうまくやれている人なんて見たことがない。

 

ということは逆説的に言うと、もはやそのうまくいかないことも全部システムに組み込まれてると考えることもできるんじゃないだろうか?

 


そのエラーの程度が大きい(大きく表れているように見える)人がそこから抜け出しにくいのは、エラーの程度が実際に大きいからじゃない。

 

エラーの程度が小さい(大きく表れていないように見える)人を見て、自分はダメだとか欠落しているとか思って、なんとかそのエラーを修正しようと頑張る…というそのやり方がうまくいってないだけなんじゃないか。

 

なぜうまくいかないかっていうと、
それを
エラーと考えているから。

 

自分は欠落している、エラーを修復しなければと思えば思うほど、
それがエラーである
という信念を強化していることになる。

 

そしてそれをエラーだと認識しているということは
=システムを理解していないということなんじゃないか。

 


僕が思うにそれはエラーじゃなく、人間の根底にあるシステムだから。
その認識がそもそも違う。
システムを理解していなかったらそれに対処することはできない。


感情で思ってもいない言動をとってしまうのはそういう風にできているからだし、
感情をうまく言葉にすることができないのも、
自分の感情がわからないのも、
イラ立ちをうまく処理することができないのも、
コミュニケーションの取り方がわからないのも、
接する人によって色んな自分が出てくるのも、
やろうと思っていることをなかなか行動にうつせないのも、
決意したことが後で変わってしまうのも、
人のささいな一言に傷ついてしまうのも、
価値観の違う人とぶつかってしまうのも、
大事なものを大事にできていないように感じるのも、
自分を守るために人を犠牲にしてしまうのも、
自分を正当化する為に人を非難してしまうのも、
自分の問題を直視しない為に関係ない所にぶつけてしまうのも、
気分にムラがあるのも、
約束を守れないことがあるのも、
時々無気力になるのも、
悲劇のヒロインを演じてみるのも、
落ち込みからなかなか立ち直れないのも、
同じ失敗を何度も繰り返すのも、
人が簡単にできることを自分はできないのも、
人と自分を比べてしまうのも、
人のことをうらやむのも、
人に優しくすることができないのも、
人より優位に立ちたいと思うのも、
自分をずるく感じるのも、
表で良い顔をして裏で文句を言うのも、
将来のことを不安に思うのも、
自分にこの問題を乗り越える力はないと投げ出しそうになるのも、


『そういう風にできているから』

 

必ずしもそれが全て表面化する訳じゃないけどそうなりやすいようにできている。

だからまずはそれでいい。

自分だけが特別欠落している訳じゃない。
自分だけが特別嫌なやつな訳じゃない。

みんな馬鹿だし機能不全だ。


だけど次の一手は自分で選択できる。

次々に"降りかかる"出来事や"自然に沸き起こる"感情に翻弄されるだけの存在じゃない。
いつだって選ぶことができる。

 

今日うまくいかなくても次に同じようなことがあった時、違う方を選ぶことができる。
そもそもそういう風にできているんだから何回間違ってもうまくいかなくても想定内で悲観するようなことじゃない。


例えばRPGのゲームで敵にやられてももう一度やってみようと思えるのは、ゲームってそういうものだと理解しているから。
それと同じ。
次々に問題がやってくるように見えるのも最初からうまくいかないのも、そもそもそういうものだから。


ちなみに敢えてわかりやすく馬鹿と書いたけど、厳密に言うと馬鹿とかそういうことでもなくて、もう単にそういうシステムというかそれがデフォルトってこと。
正常。順調。

 

だからより物事をスムーズに、自分の望む方に進める為にできることがあるとすれば、感情を押し込めたり思ったことをなかったことにしたり我慢したり無理に何かを変えようとしたりすることではなく、それをエラーと考えることをやめること。

 

それはエラーではない。

理由や目的があって起こっていると考えてみる。

 

もしかしたら何か心の奥に隠している目的の為にやっているのかもしれないし、

何か見落としているものに気づかせる為にあるのかもしれないし、

何かを恐れていて不自然な形で現れてしまっているだけかもしれない。

 

例えばそんなようなこと。

そういうもの全てを含めて今システムと表している。

 

つまり訳のわからない・理解できない・自分ではどうすることもできないただの欠陥、理不尽で何をもってしても補うことのできない致命的な問題、という意味での想定外のエラーではなくて、『◯◯だから△△』というシンプルなシステムなんだ、と。(シンプルと言いながらこんなに複雑なものもないけど)

 

 

人によってはそれをシステムだと認めたくない気持ちもあるかもしれない。
それぞれ環境が違うし、家庭とかお金とか病気とか周りの人間関係とか過去の経験とか色々なものが複雑に絡まりあっていて、自分の場合は特別困難なケースなんじゃないかと思えてくることもあると思う。

 

もちろん個性や向き不向きもあるしそれぞれの道は全然違う道なんだけど、それでもやっぱり根底のシステムは同じだと僕は思っている。

 

うまくいっているように見えるあの人にも
問題を抱えているように見えるあの人にも
同じシステムが動いている。

 

だからこそ、全ての人が
その囚われている『エラーという概念』からいつか自由になることができるんじゃないかと。

そんなことをどこかで信じている。

 

もしもそれを望むなら。

 

 

 

映画『グレイテスト・ショーマン』感想(ネタバレ無しめ)

話題のグレイテスト・ショーマンをようやく観ることができたので感想を。〔作品のテーマに関する個人的な見解(予告編から想像できるレベルのざっくりとしたもの)は書いてるけどストーリーの詳細なネタバレはしてないはず。何も前情報を入れたくない人は映画を観てからの方がいいかも〕

 

まず始まり方からして持っていかれてしまった。

 

開始5分でなんかしらんけど泣いてた。

その後も蛇口を閉め忘れてちょっとだけ水が流れ続けてるみたいな感じで謎に泣いてる時間の割合が多かったな。

まぁつまり自分の何かしらの琴線に触れる作品だったということだと思う。

 

ところで主演のヒュージャックマンはどうしてあんなにあのショーの舞台に映える容姿なんだろうか。あの衣装であの舞台に立つだけで絵になるしワクワクする。見た目も重要だよなぁとあらためて思った。

…みたいな話はさておき。

 

 

この作品の評価が分かれるのはミュージカルということやその曲を好きになれるかっていうのももちろんあるだろうけど、結構ストーリーの構成について言及されていることが多いみたい。

 

たしかに言わんとすることもすごくわかる。

ストーリーはそんなに目新しいものじゃないし、先が読めると言えば読める。シンプルだし、丁寧に背景が描かれてる訳じゃない。展開も早いし、都合良すぎ、一面だけを描きすぎ、と言われるとまぁそうかもしれないと思う。

 

だからと言って「曲だけは良かったよね」で終わるにはちょっと勿体無い作品のように個人的には思った。

 

 

この作品には大きく3つのテーマがあるように思う。

 

まず中心に『エンターテインメント』というテーマ。

これはP.T.バーナムというショービジネスの原点を築いたプロモーターの実話からインスピレーションを得て作られた作品ということもあって全面に描かれている。

 

そして『個性』というテーマ。

こちらはミュージカルパートの軸となり描かれている。

 

最後に自分の夢を追うことも含めた、『大切なものは何か』というテーマ。

これはストーリーの軸。その中では人間が陥りやすい罠についても触れている。

 

 

他にも色々細かく言うとあると思うけど、例えばこの3つだとして、そういった全体を見ると絶妙なバランスでデザインされている素晴らしい作品だと僕は思った。

 

ただもしストーリーだけに着目すると、内容が薄く感じてしまう気もする。全然そこを深く掘ってないから。

でもそこは難しい部分でもあるよなー。全部を盛り込むことはできない訳やし…と思うと僕はあれで良かったと思ったんやけど。

 

ストーリーっていうのはある程度頭で理解しないといけない要素だと思う。

もちろんそこには音楽や演出や演技等も大きく関わってくるけど、まずはこうなってこんなことがあってこうなりましたっていう流れは頭を使って理解している。理解できないと何が起こってるかわからない。

だからそこで引っかかる部分があると腑に落ちない感じになるのもよくわかる。

(個人的にはストーリーで背景が詳細に描かれていなくても勝手に補完して作り手が意図していないかもしれない勝手な理由で感動できてしまうのでその辺はちょろすぎてあまり一般的ではないのかもしれない)

 

対して歌やダンスは必ずしも理解を必要としない。

それを歌っている背景や歌詞も大きく関わってるしもちろん重要なんやけど、例えそれをぼんやりとしか掴んでいなくても有無を言わさず感じさせられてしまうということが実際にある。

そういう部分に関しては圧倒的だったんじゃないかと。もちろん好みはあるけどね。

 

映画は無数にあるし、ミュージカルもまぁある。だけどあぁいうタイプのショーを見られる機会って案外少ないと思うから。そういうのが好きな自分にとっては単純にそれが作品として形になって残るということが嬉しかった。

 

 

そしてそういった色々な要素が合わさってできているエンターテインメントの持つ力に僕は魅了されてしまっている。そういった素晴らしい作品を作っている人たちのことを尊敬しているし、そういう作品に出会えることに感動している。

 

例えば自分が作品を作る側だったとして。

今自分が感じているようなものを人に感じてもらいたいというゴールがあったとしても、もはやどこから手をつけていいかわからない。

そりゃあれを見た後だったら何とでも言える。もっとこうした方がいいっていうのも出てくるかもしれない。だけど一からこの感情を引き出すために何の要素があればいいのかっていうのは想像以上に難しいと思うのよ。人によって感じることは違うし計算通りに感じさせるなんてことはできない訳で。

 

それに自分は思ったことを思ったまま言葉にすることぐらいしかできないから創作のストーリーで人の心を動かすことができるのはすごいと思う。

 

僕ができないことを誰かがやってくれているおかげで僕はそれを体験することができる。

クオリティとかもあるけど、その人がその人の持っている物を最大限に発揮しているという部分にも人は心を動かされるんじゃないかとか思ったりする。

 

だから僕は僕のできることをやろうとあらためて思いましたよ。

 

 

他の誰でもなく"自分として生きる"ということにパワーをもらえて、エンターテインメントがもっと好きになるような作品でした。