僕は女性として生まれた系男子~変えられないものとどう向き合うか~

僕は今男性として生活しているけど元々は女性として生まれました。

いわゆる性同一性障害というやつです。

男性ホルモンは打っているんだけど戸籍上は今も女性です。

 

ちなみに『女性として生まれて性自認が男性』である人のことをFTM(Famale To Male)と言ったりもします。

(こういった用語はたくさんあって馴染みのない人にとってはややこしいと思うけど以後FTMと表記)

 

先日YouTubeの動画でもちらっと話したんだけど、実は今回ネットのようなオープンな場で初めて公表しました。だから長く付き合ってる人でもこの記事で初めて知る人もいると思う。隠してた訳じゃないんだけど、直接言えなくてごめんなさい。

 

「はじめまして。男性の〇〇です」

「はじめまして。女性の〇〇です」

とかってみんな自己紹介の時に言わないと思うけど、そういう感じで普通に男性として生活するようになるとわざわざ言うタイミングがなかなか見つからなかったりする。

ちょっと聞いて!って言うことでもないし…

 

聞かれたら全然話してもいいんだけど…っていう感じで今日に至りました。

 

それがここ最近いろんな状況や出来事や人との出会い・タイミングが重なって自然と書いてみようという気持ちになれたので今回は自分がFTMであることとどうやって向き合ってきたかを書こうと思います。

 

 


 

今までは性別のことは別に僕のアイデンティティではないと考えていた。

FTMのけんじとしてではなく、けんじという人間として見てもらいたかったし、話そうが話さまいが僕がFTMであることに変わりはないから別に話してもいいんだけど、逆に言えば殊更強調する必要もないだろう、と。

 

だけど『自分を活かしていく』『自分にしかできないことは何か』っていうのを考えると、やっぱりこの話題は避けて通れないと思った。

 

 

 

今はそのことについてほとんど悩んだりはしてないんだけど、やっぱり自分でそのことに気づいた中学生の頃には相当悩みもした。

 

自分は普通じゃないんだと思った。

『普通』とか『常識』とかから外れること(外れてしまったと思うこと)で苦しむっていうのは今思えば僕のこういった問題だけじゃなくてよくあることだと思う。

 

なんというか幸せのテンプレートみたいなものがあって、どこかでそれを目指さないといけないんだというか。

今はどうかわからないけど僕の時代はまだそういうものが今よりまだ強くあって、僕の個人的な思い込みもあったと思うけど、学校を卒業したら定職についてそれなりの給料をもらって、恋愛をして結婚をして子供を育てて休みの日には家族で公園やショッピングモールに行く、みたいな。(たぶん最後の方は完全に僕の勝手なイメージだけど…笑) 

 

自分がFTMであることに気づいた時にそういうもの(="普通"の幸せ)はもう僕には望めないんだと思った。その時はもうそう思い込んでいた。

あぁ僕は普通の恋愛もできないし普通のSEXもできないし自分の家族ももてないんだなぁ…とか思って悲観的になっていた。

 

とは言いつつもそのあと比較的早い段階である女性と恋愛関係になり、その後も欠乏感を埋めるように恋愛を繰り返していくことになるのだけれど。

※ちなみに良い機会なので補足しておくとFTMイコール女性が恋愛対象という訳ではない。 FTMというのは性自認(自分の性をどう自認しているか)の話であって性的指向(恋愛・性愛の対象)はまた別の話です。

 

元々僕は負けず嫌いでなぜか根拠のない自信を持っていて人にできることは自分にもできるんじゃないかなんて傲慢なことを思っていたりするタイプではあった。

それでも性別のことに関してはどうしたって自信なんか持てなかった。だっていくら男性らしく振る舞ったところで男性にはなれないんだから。

 

そういう所からくる自己肯定感の低さを最初の頃僕は他者からの承認によって埋めようとしていたように思う。特に恋愛においての女性からの承認を。相手が自分のことを『男性として』好きでいてくれるということで自分が男性として認められているような気がした。

男性ホルモンの注射を打ち出したのが18歳とかだからそれまでは見た目ではどちらの性別なのかはっきりとはわからない感じで、よりそういったことが自分で気になっていたのもあるし。

 

相手の気持ちを確かめるためにどこまで自分を受け入れてくれているのか試すようなことをしていたと思う。自分の思い通りにならないことがあったらすぐに「自分は大事にされていない」「思われていない」と感じた。不当に扱われたということは怒って当然だと言わんばかりに感情的に怒鳴ったりもしていた。(最近出会った人にも比較として当時の僕を見ておいてもらいたかった…元々僕は本当に口が悪い)

それに加えて男性性というものに対する自分の歪んだ認識もあって、相手を支配・コントロールしようとしていた気がする。

 

それに相手が応えてくれることで一時的な安心感を得ることはできたものの、根本的な解決にはなっていないので自分の中の自己肯定感や確固たる何かにはならなかった。

その状態ではどこまでいっても僕は自分のこの境遇を本当の意味で受け入れることができていなかっただろうし、それに人から何かをもらおうとして結果的に大事な人を傷つけるようなやり方をしてきたことで僕はどんどん自分が嫌いになっていった。

自信をつけたかったはずなのに自己肯定感はむしろ下がっていった。

 

このままでは落ちていく一方だと思った。

だって僕が女性として生まれたという事実はどれだけ努力をしても覆ることはない。

 

この『どうやったって変えることができない』という事実。人は往々にして環境とか生まれ持った特性とか、そういう変えることができないことに苦しめられる。

 

だって『努力したらもしかしたら変えることができるかもしれない』というのであれば頑張ってみようかなと前向きな気持ちにもなれるだろうけど、変えることができないというのはどうあがいてもどうすることもできないという意味なので。

そこにフォーカスすると絶望的な気持ちになるのも無理はない。

 

他の人が普通に持っているものを自分は持っていない。

他の人が普通にできることが自分にはできない。

そんな風に考えて不公平感を感じたりもする。

なぜこうなってしまったんだろう…と考えても答えの出ないことを考え続けてしまう。

もしこういう風に生まれていなかったら…と考えてもしょうがない想像をしてしまう。

 

 

そうしてある時

僕はそんな自分がとことん嫌になった。

もう本当に嫌になった。

いつまでもそのことを盾にしている自分に

人の愛を踏みつけ人を傷つけてきた自分に

そういう劣等感からくる感情に振り回されて思ってもない言動をとってしまう自分に

ほとほと嫌気が差した。

 

このままの自分ではこの先、生きていけないんじゃないだろうか。

そんな風に感じる瞬間があったように思う。

だってその道の先には暗い未来しか想像できなかった。

ここで人生をあきらめるか、自分が変わるかの2択しかない。

人からしてみれば大袈裟に聞こえるだろうけどそれぐらいの決断を迫られている気分だった。

 

変わるしかないと思った。

 

 

 

その辺りからだと思う。

僕が『幸せ』について本気で考えたり世間の『普通』をより疑い出したのは。

 

 

その時の僕はこう考えていた

『良い人間にならなければならない』と。

自分のことをどう考えても良い人間だとは思えなかったし、良い人間になって自分を好きだと思えるようになりたかった。

 

あと性別のことにしても性別なんて関係ないと人に思われるぐらい良い人間になればいいんじゃないかと思った。ちょっとやそっとの良い人間じゃダメだ。見せかけだけ良く見せるのも意味がない。性別のことなんてそんなものは微々たる問題だと思わせるぐらいに圧倒的に良い人間になろうと思った。

(ちなみにこの時点ではまだ人からの承認を求めている発想なんだけど)

 

 

今思えば良い人間とか悪い人間とかないし、良い人間って何だ?と思う。良い人間になんてなろうとする必要あるか?とも思う。

だからこの目標は若干偏りがあるんだけど、結果的にスタートとしては悪くなかった。

良い人間になろうとする過程でまずはその自分が理想とする良い人間と今の自分がどれだけかけ離れているのかという現実を直視しなければならなかったからだ。

良い人間になろうとする必要はなかったし今でも別に良い人間ではないけれど、この現実を直視するということには意味があった。

 

自分に何が起こっているのかよく観察した。

本当は何を思っているのか、どんな感情が芽生えたのか、どういう経緯を経て自分がその言動をするに至ったのか一つ一つ観察していった。

 

この詳細については長くなってしまうのでまた改めて書こうと思うけど自分の感情から学ぶことは多かった。特に怒りの感情。

なぜその怒りが湧いてきたのかをよく観察することで『自分が何を信じているのか』を知ることができた。

 

その信じているものっていうのは世間でいう『普通』が絶対的なものではないのと同じように自分が勝手に思い込んでいるだけで事実ではない。それによって自分が望まない状態になっているのならその事実ではないという事実を明らかにすればいい。

 

そしてそんな日々の中でこんな言葉に出会った。

 

神よ、願わくばわたしに、

変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、

変えることのできる物事を変える勇気と、

その違いを常に見分ける知恵とをさすげたまえ

 

二ーバーの祈りの一節らしい。

 

 

本当にそうだと思った。そうでしかないと思った。

自分の境遇と照らし合わせることでより深く感銘を受けた。

今でもこの言葉はいつも頭の片隅にある。

 

変えることのできないものを嘆いているだけだった時、僕は自分のことを不幸だと思っていたし、嘆き続けてもそれは何にもならなかった。

変えることのできないものに向けていた目を変えることのできるものに向けて、一つずつ変えていった。

 

自分のこの境遇を嘆いたり人からの承認を求めたり人によく思われようと人に合わせたりするのではなく、自分が感じていることを観察して本当の気持ちを知り、結果に関わらず毎瞬毎瞬ありたい自分であるという選択をすることに集中した。

日々自分のなかでいろんなものが渦巻いている。

人がどうだとか気にしている暇はなかった。

 

僕の生まれた境遇を変えることはできない。

人からの承認によって自分を満たすこともできない。

人や結果をコントロールすることはできない。

だけどありたい自分であることはできる。

どんな悲惨な状況であってもいつも僕は自分で自分の選択することができる。

 

その実感が少しずつ自信になっていった。 

 

文章にすればスムーズにいったように聞こえるだろうけどそんなにすんなりといった訳じゃない。

行っては戻っての繰り返しで本当にちゃんと進めているのか確証はなかった。

なんでこんな大変なことをしなければならないんだ。もう何も気づかないフリをして文句を言いながらそれなりに生きていけばいいんじゃないのか、と何度も諦めそうになった。

 

「なるほどそういうことだったのか」とある程度自分の中で整理がつくまで10年ぐらいかかったかもしれない。

今思えばほぼ独学と試行錯誤でやってきたのでこんなに時間がかかっただけで、カウンセリングとかそういう人の力を借りればもっと早く進んだのかも。

でも自分の場合は試行錯誤したことによって人間の感情の仕組みについて理解が深まった部分はあるので良かったと思う。

 

 

 

僕が女性に生まれたという事実は何も変わっていないにも関わらず僕にとってのこの世界の意味合いは大きく変わった。

 

あれだけ男性に生まれたかったと切望していたにも関わらず今では性別のことにそんなに執着がない。

女性だろうが男性だろうがそこはそんなに重要じゃないと思うようになった。

今一応基本的には男性として生活しているけど『自分は男性だ!』と意識する場面というのはなかなか無い。考えてみるとよくわからない。

あれだけ人生を左右するほど重要だと思っていたことなのに、それを解決したくて進んでいった結果それがあまり重要ではなかったことに気づいたのだから皮肉と言えば皮肉だ。

 

もちろん自分にとって重要だと思うことを追い求めるのは悪いことじゃない。

だけど追い求めた結果、僕と同じように本当に求めていたものは『それ』じゃなかったと気づくいうこともよくある話だと思う。

そのことに気づけるだけでも1歩を踏み出す意味はある。

 

 

 20年前、僕は自分の取り扱い方がわからず

『このままでは僕はいつか気が狂うか刑務所に入ることになるかもしれない。生きていくことができない』などと思っていたのだ。

 

そんな僕でもこうして捉え方を変え、生きやすくなった。

自分よりももっと大変な環境にいる人はたくさんいるし、そういう人たちがどれだけ辛い思いをしているのか僕には本当の意味で理解することはできないと思う。

だけどそれでもそういった課題の壮絶さに関わらず、捉え方を変えてそこから自由になることは可能なんじゃないかと思わずにはいられない。

 

 

問題の解決には目に見える方法と目に見えない方法があって。

例えば僕のようなFTMの例で言えば、性同一性障害という診断を病院で受けて、ホルモン療法や手術をしたり名前や性別を変更したりすることが目に見える方法かもしれない。

セクシャリティについて悩んでいる人なら同じような人と出会って情報を共有したり、自分が自分らしくいられるコミュニティで過ごすこともそうかもしれない。

その他のすべての問題においても『どんな言動をするか』『どう対処するか』という目に見える問題解決方法について考えることが多いと思う。

 

だけど『自分が自分のことを受け入れているかどうか』といった目に見えない部分については案外後回しにされていたりする。(昔に比べるとかなり重要視はされてきているとは思うけど)

目に見える変化・具体的な行動を起こしていくことももちろん大切だし並行してやっていくことだけど、いつかは自分と向き合って自分で自分を受け入れないと頭打ちになる可能性がある。

 

昔、僕が自分を受け入れていなかった時のことを思うとどこか自分の人生を生きていなかったように感じる。

普通でないことによる不安はそもそも世間の基準からくるものだし、人によく思われたいとかどう思われるかとかを気にするのも人を基準にしている。

自分が男性でないということについても、元から男性として生まれている人がいることや『一般的な恋愛の形』『一般的な社会での扱われ方』なんかを思えばこそより不満や不公平感を感じたりするのであって。

 

いつもいつも人を基準にして、人と比べて、自分の本心を見ないようにして、人に認められる何かになろうとしていた時、僕は誰の人生を生きていたのだろう。

 

だって自分がどれだけ嫌だと言ってもやめたいといっても、これが僕なのだから。

 

「これが自分だ」「これが自分の人生だ」と言えた時、心から受け入れることができた時、初めて本当の意味で自分の人生を自分の手に取り戻すことができるような気がする。

そこからまた望む方向へ足を進めていけばいい。

 

 

誰もがそうやって自分らしく自由に生きられるようになるといいなと思う。

その為に僕に何ができるだろうと考えている。

 

それは別に『人の為に』とかそういうことだけではなく。

単純にみんながそういう風に人の目を気にすることなく自分自身を最大限に生きて、自分を受け入れ、自分で自分の選択をしている。

そんな世界を見てみたい。

 

『普通』になろうとして自分の心を押し殺したり苦手なことや やりたくないことを無理して我慢してやったりするのではなく。

その人の特性を活かして誰もが自然に生きることができて、やりたいことや得意なことを伸ばしていける。

そんな世界を見てみたい。

 

それはそんなに簡単なことじゃない、理想論だ、綺麗事だと人は笑うかもしれないけど。

それでもいい。

僕にはそのヴィジョンが見えているから。

 

それが僕のやりたいことなんだと

ようやく言えるようになった。

 

 

自分を受け入れたとはいえ、それを活かしていこうと思うまでには随分と時間がかかってしまったけど。

いろんな巡り合わせを経て腹をくくることができた。

 

今僕の周りでも『自分を活かしていく』『自分には何ができるのか』ということに向き合っている人が増えてきている。

これは偶然ではなく、全体的にそういう段階に差し掛かってきているのかなと思う。

 

どんな風になっていくのか、楽しみだ。

 

 

僕もこれからもっと自分を活かして、自分にできること・自分にしかできないことをやっていこうと思う。

 

あの日変わることを決めて今日の自分があるように。

 

いつか振り返った時、今日をまたターニングポイントに感じるような気がしている。